他人を追いつめて自殺させる自殺教唆や無理心中のような場合は一種の殺人である。これが犯罪となるのも納得できる。しかし、自殺者に共鳴した介助者を罰する理由は何だろうか。唯一考えられるのは、自殺は自分の生命を処断することだから許されもするが、幇助は他人の生命を殺めることになるから許されない、という理由だ。当然ながら、かなり苦しい理由である。
呉智英
前回、「自殺そのものが罰せられないのに、これが自殺幇助罪として独立的に一つの犯罪となっているのはなぜか」という問題を提起したが、それは呉智英氏の文章を参考にさせていただいた。
宗教的には、例えばキリスト教の原理的教義からは、神によって創られた人間が神の御意志に反して自殺することは罪であると考えられる。これならば自殺幇助は罪となり得、いわば自殺罪が存在しないのは立法の不手際ということになる。
法学的には2つの考え方があるようだ。
まず、自殺が処罰されない理由として、「自殺は違法な行為であるが、刑法の責任主義の観点から、責任が阻却されるため処罰されない」とする立場と、「自殺を違法ではない、違法性が阻却されるため処罰されない」とする立場がある。前者の立場は、自殺という違法な行為に関与した者をその共犯として捉え、自殺幇助罪として処罰できると説明する。一方、自殺は違法ではないとする後者の立場は、共犯云々とは関係なく、本人には自己の生命を処理する自由があり、生命のあり方を決める事ができるのは本人だけだと考え、他人の意思決定に影響を及ぼし生命を侵害する行為自体が違法となる為、自殺幇助を処罰できると説明する。
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後者の立場は、呉氏の指摘する「かなり苦しい理由」とつながるか。
哲学的にはどうだろうか。
自殺とは、将来の自分に対する殺人であり、ほんとうは他殺ではないか。記憶もないような幼い時代の自分と、現在の自分、そして衰老の自分とが、果たして同一の人格だと言えるのか。
朝日新聞 読書欄 2020年9月26日付
「法哲学はこんなに面白い」 森村進(著) 評:石川健治
この考え方だと、自殺は殺人罪であり自殺幇助罪はいわば殺人幇助罪ともいえることになる。
以前、「自死願望という点では安楽死(広義)は自殺とほぼ等しいと思う」と書いた。自殺が罪ならば安楽死は罪なのか。私自身はそれを否定したいのだが。