入江塾は、京都市の塾グループ「育星舎」のなかの中学受験専門部門で、小学生を対象とした学習塾です。授業は1科目週1回1時間。無理のない楽しい中学受験を。本部の北野教室(北野白梅町、円町)を中心に出町教室・桂教室でも開講中。洛星、洛南、西京、洛北、東山、京都女子、同志社など多くの中学に合格の実績があります。

育星舎代表ブログ

 

本物の塾 その3(2022年10月)

京都の中学受験は1月なので、それまで1年少ししかない。土曜日に普通の授業を受けさせ、月曜から金曜までは個人指導でその予習をする。個人指導では基礎の基礎からやり直さなければならない。2人の個人指導の先生にはとてもお世話になった。忍耐強く、同じことを繰り返してでも教えてくれた。

 

小学生の受験は孤独では続かない。土曜の集団指導と日曜の個別演習(複数の生徒がそれぞれの課題を学習し、指導を受ける)で友達がすぐにできた。そんな彼の人柄が受験成功のための大切な要素でもあった。日曜の休み時間はコンビニに買い物に行った。1人300円ぐらいまでにしてもらい自由に選ばせた。そんなことがちょうど良い息抜きになったようだ。

 

御両親の熱心さも大きく影響した。京都に部屋を借りてくれ、春期講習、夏期講習はお母さんの世話のもとその部屋から毎日通ってくれた。夏期講習は盆休みが3日ほどあるが私の個人指導は休みなく続けた。私の身体の限界も近かった。

 

9月以降は志望校の過去問もやり出した。驚くことに計算問題は私よりも早く正確に解けるようになっていた。当初、箸にも棒にもかからなかった頃に比べると見違えるほど優秀になった。ただ、落ち着きがなく文章などをよく読まずうっかりミスをする点は最後まで心配だったが。

 

冬期講習では年末、年始も塾に通ってくれた。出会った頃と比べて、明らかに眼の色が変わっていた。1月の第3土曜日、京都の中学入試の解禁日を迎えた。合格を報告しに来てくれたとき満足しきった顔を私に見せてくれた。

 

偏差値40に届かなかった生徒が1年で偏差値50を超えた。これはどれほど困難なことなのか。経験者以外は理解できないと思う。偏差値50から60にするほうがたやすい。基礎学力がない生徒にその学力をつけるにはとことん遡って教えていかなければならない。想像もつかない根気のいる仕事だ。それをやってのけても世間は驚いてくれない。偏差値70の生徒がそのまま超難関校へ合格するほうがインパクトがあるのである。

 

私の身体はというと、うつ病が再発した。風邪のような症状が続き、何の薬も効かないやっかいなものだった。秋には仕事から離れて気分転換も兼ねて城崎に数日滞在させてもらった。1泊数千円のホテルがあったので長居できたのであった。城崎には7つの外湯があるが、その内の5つの「男湯一番札」(開場して最初の客がもらえる将棋型の札)を今でも部屋に飾ってある。

 

2年後、彼と食事をした。医者の息子の友達が多いという。「自分も医者になりたい。」彼の成長はこれからもつづく。

本物の塾 その4(2022年11月)

本物の塾とは教える事のプロフェッショナル集団だと思う。知識だけでなく考え方を教えるのである。教科書や参考書どおり教えていたのではそれはできない。そんな講師に教わった生徒はある段階で目から鱗の境地になる。脳にあるいくつもの歯車がかみ合って一斉に動き出す。私はある先生に数学を習っていてそんな経験をしたことがある。数学的思考に目覚めたときの悦びを忘れられない。

 

私は大学時代に父に反発して家を出た。苦労もし、社会的にも成功した父に劣等意識を持っていた。結婚を機に父と和解したとき、私は小さな個人塾をしていた。ある時、父は私に「お前も一人前の教育者なのだからしっかりやれ」と言われた。「そうだ、教育者になれば父と対等になれる」と私は思った。売上げも生徒数ももちろん大事だが、教育者でなければならないと強く思ったし、今も思っている。幸い育星舎の講師達も教育者を目指している。

 

本物の塾のトップは教育者でなければならないと私は思っている。だから育星舎の後継者の条件は教育者であることだ。他業種の経営者に事業を承継しようとは思わないし、同業者であっても教育に関心のない経営者に事業を売り渡しはしない。

 

実際、学習塾をしていても教育より経営の方に重きを置く塾長は多い。例えば安い授業料で有名な関西の大手個別指導塾Kの代表F氏。彼がまだ大手でない頃、彼の塾仲間のグループ会合に顔を出したことで知り合った。彼に紹介した個人塾の先生が生徒指導のために漢文の勉強を始めた。それに対し「あの塾は大きくならないな。漢文などは他人にやらせればいいんだ。」と評した。「なるほど塾経営はそんな考えをしなければならないんだ」と私は感心した。彼は「教え方は入江先生に任せますわ」などと教育論にはほとんど関心がなかった。塾を大きくすることに腐心していた。塾人として一番気にかかった彼のことばは「大手を敵にするな。小さな塾を潰していけ」だった。彼が店舗展開しだした頃、悪評を聞いた。親しくしていただいていたある私学の先生からだった。「個別指導塾Kが塾業界を荒らしている。昔からなじみの個人塾も生徒を取られている。そしてKは調子が悪ければすぐに撤退してしまう。捨てられた生徒がかわいそうだ」。多くの保護者はチラシやコマーシャルの裏側に隠された実態を知らない。大手だからと信用してしまうのだろう。彼は今、教育より税金対策に頭を悩まされているそうだ。

 

本物の塾は生き残っていけるのだろうか。塾の存亡は生徒、保護者の支持にかかっているからだ。

本物の塾 その5(2022年12月)

私は働き始めから教育者を目指していたわけではない。同世代の塾長は学生時代から塾を運営している者が多いが、私はそうではない。大学では何年も留年し、結局中退、フリーターになった。何をして生活していったらよいのかまったく考えが無かった。時に26才。

 

そんな時、小学校の同級生Y君に出会った。彼は学習塾を近く開業するという。「なるほど、学習塾ならば受験勉強をしてきた私にもできるのではないか」と思った。姉からお金を借りて家を出た。

 

生徒を教えるために夕方以降は時間がとれる仕事を探した。ある食品会社の調理場に仕事が決まった。しかし、現場の人々が「いくら中退でも京大に行っていた人とは仕事はできない」ということで人事担当者から謝りと断りの連絡があった。自分は何と中途半端な地位にいるのだろうと悲しくなった。

 

次はウェイターの仕事。場所は顔がさしたら困るので実家から遠く離れた喫茶店。朝6時から昼の2時まで。人間関係の複雑な所で、ウェイトレスや調理人も店に対する忠誠心など全くなく、お互い足の引っ張り合いをしていた。ある時など、1人のウェイトレスにまさに足を引っかけられ注文のコーヒーごと私は倒されてしまった。客の前で恥をかかされたその時の気持ちは今も忘れられない。

 

さらに製麺所で働いた。そこの女将さんの自慢の孫は今もある大手の進学塾に通っている小4の男の子だった。学習塾の開業を目指していた私にとっては、麺を洗っている今の自分が情けなかった。京都中央市場の塩干でも働いたが、体力の無さで数日でギブアップしてしまった。

 

それぞれのアルバイトをしながら夕方からはY君の塾で手伝ったり、その派遣で家庭教師をした。Y君は学生の頃から生徒を教えていて、実績もあったのですぐに生徒が集まった。生徒や保護者も私など目もくれず、Y君の方を信頼していた。

 

しかし、私の方も独自で家庭教師をするようになった。もうそろそろ塾を出したいというあせりも出てきた。Y君に対するライバル意識は強かった。

 

最初の塾のライバルY君が教育者だったことは今から思えば幸いだった。

本物の塾 その6(2022年1月)

学習塾を開業するにはお金がいる。車の運転は母から危ないと注意されていたが、少しでも時給の高いアルバイトということで弁当屋の配達を始めた。京都市内にいくつもの配達ルートがあったが、私の担当は一番短いコースだった。ほとんどのコースは朝8時頃に出発するが、私は10時頃までおばちゃん等と一緒に弁当のおかず入れをさせられた。おばちゃん等の世界にも上下関係があり、話す内容は愚痴ばかりで聞くに堪えなかった。自分のコースの出発を少しでも早めようと思い、営業活動をやり出した。会社に内緒で弁当を2、3個多く持ち出し、飛び込みで注文をもらいにいった。「まいど」と言って知らない空間に入っていくのは勇気がいるものだが、とても興味深い体験だった。注文がとれた所には特にサービスを心掛けた。日によっておかずの内容が貧弱なときがあるのだが、そんな時はポケットマネーを使ってコーヒー牛乳を差し入れた。そのうちにコースも充実してきて皆と同じ8時に出発できるようになった。社長から金一封をもらった。

 

塾の教室を借りるためのまとまった保証金はまだ無かった。「まだまだお金を貯えなければならないなあ」とあきらめかけていた。そんな時、ある民家の2階で教室にできそうな物件を見つけた。敷金70万円、家賃7万円。塾の片隅で寝起きすればやっていけそうだ。70万円も手持ちはなかったが、「この物件を逃すわけにはいかない」と強く感じた。その衝動のまま、八方手をつくし60万円をかき集めた。中古で安くしてもらった看板もつけて何とか学習塾を開設した。近辺にチラシをまいたが反応はほとんどなかった。弁当屋の配達も、家庭教師も続けなければならなかった。

 

私が塾を開いたことを知った弁当屋の社長から「孫の勉強をみてくれ」と頼まれた。結果的に弁当屋の仕事を頑張っていて良かったとつくづく思った。ただ、なかなか生徒は集まらなかった。来てくれても、大手塾に行けなかったような学力の子ども達。その子らでなんとか実績を上げなければならない。集中力のない子を学習に向かせるにはどうしたらよいのか、テキストの解説で理解できない生徒にどう説明するのか、生徒集めもさることながら子どもの1人1人の個性と真剣に向きあった。その成果が少しずつ出てくるとともに、口コミで生徒が入塾するようになってきた。

 

その後、塾生は少しずつ増えていき、午前中のアルバイトをせずに塾に専念できるようになるまで数年かかった。時に30才。

 

私は去年70才になった。生徒1人1人の個性と真剣に向き合う姿勢は今も変わりない。本物の塾を目指して。


●育星舎グループ代表:入江篤志

☆小3の頃は、九九が覚えられず 居残りをさせられたぐらいの学力の子。

しかし、すぐれた師匠達との出会いのお陰で、私立洛星中学、さらに京都大学法学部に合格する。

ところがその後学習意欲を喪失。

長いモラトリアムの末アルバイトをしながらプロ家庭教師に、そして学習塾を設立、今に至る。

 

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