つい最近、育星舎に通う高校生の同学年生で自殺された方がおられたと聞きました。
御両親の悲しみはいかばかりかと、同年代の子供を持つ者として哀憐の情に堪えません。
学校関係者のショックも大きかったでしょう。
そして、そんな兆候を感じなかった同級生等の間に動揺が広がったとも聞いています。
私は数年前うつ病にかかり、最もひどい症状のときは自殺志向が出ていました。
そのとき考えたことは、残された者のことです。(ということは重度の自殺願望ではなかったのでしょうが)。
他の方々には悪いのですが、一番気にかかったのが年老いた両親のことでした。
私が自殺すれば必ず2人の死期を早めるだろうことは明白でした。
間接的に人の命を縮める行為をしてしまう。
これでは死ねない。
「うちの親は何でこんなに長生きをしているんや」そんなことまで考えていました。
仏教、キリスト教には少なくとも自殺を否定する教えはありません。
社会制度として、自殺に近い安楽死(もちろん本人の安楽)は判例上厳格な要件の下で認められてはいます。
しかし、現在自殺は10年連続で3万人を越えていることを踏まえて政府は昨年6月に自殺総合対策大綱を策定しています。
ということは自殺は社会的にはある意味で肯定できないということでしょう。
先程の件の直後、偶然あるカウンセリングセンターを訪れる機会がありました。
そこで京都市こころの健康増進センターが出している2つのパンフレットを見つけました。
1つは「自殺予防のために私たちができること」との題がついていて、先程の自殺予防対策からすれば当然考えられるものでした。
しかし、もう1つの題「大切な人を自死でなくしたあなたへ」を手にとって私はハッとしました。
「そうなんだ。自殺した人がいるとすれば、それによって悲しみと戦っていかなければならない人も同じように多く存在するんだ」
その中に「こころのカフェ きょうと」代表の石倉紘子さんのメッセージが載っていました。
一人で呆然としていませんか?驚きとショックで何をしたら良いのかわからなくて困っていませんか?
私も遺族の一人です。
嘆きと悲しみと置いていかれてしまった悔しさとで、ただただ泣いていました。
座り込んだまま、立ち上がることもできず、誰に相談することもできず、なぜ?どうして?あなたを助けてあげられなかった私が悪かった!ごめんなさい。
わたしも連れて行ってほしかった!そんな感情が渦巻いてひたすら泣くばかりでした。
でも、いま、あなたは一人ではありません。
助けてくれる人、支えてくれる人、相談にのってくれる人、悲しみを分かち合ってくれる人、慰め励ましてくれる人がきっといます。
一人で泣かないでください。勇気を出して助けを求めてください。
生き抜こうとする生命力が人には元来備わっていて、そしてそれは「自分は決して一人でないと感じさせる、寄り添い、支えてくれる存在があることで発揮される」と信じています。
あるカトリックのシスターが自殺の是非についての私の質問に答えてくれました。
「すべての罪を赦すことのできるイエスの愛がどうして自殺されたその方に注がれないことがあるでしょうか」