こちらの続きです。
京都の中学受験は1月なので、それまで1年少ししかない。土曜日に普通の授業を受けさせ、月曜から金曜までは個人指導でその予習をする。個人指導では基礎の基礎からやり直さなければならない。2人の個人指導の先生にはとてもお世話になった。忍耐強く、同じことを繰り返してでも教えてくれた。
小学生の受験は孤独では続かない。土曜の集団指導と日曜の個別演習(複数の生徒がそれぞれの課題を学習し、指導を受ける)で友達がすぐにできた。そんな彼の人柄が受験成功のための大切な要素でもあった。日曜の休み時間はコンビニに買い物に行った。1人300円ぐらいまでにしてもらい自由に選ばせた。そんなことがちょうど良い息抜きになったようだ。
御両親の熱心さも大きく影響した。京都に部屋を借りてくれ、春期講習、夏期講習はお母さんの世話のもとその部屋から毎日通ってくれた。夏期講習は盆休みが3日ほどあるが私の個人指導は休みなく続けた。私の身体の限界も近かった。
9月以降は志望校の過去問もやり出した。驚くことに計算問題は私よりも早く正確に解けるようになっていた。当初、箸にも棒にもかからなかった頃に比べると見違えるほど優秀になった。ただ、落ち着きがなく文章などをよく読まずうっかりミスをする点は最後まで心配だったが。
冬期講習では年末、年始も塾に通ってくれた。出会った頃と比べて、明らかに眼の色が変わっていた。1月の第3土曜日、京都の中学入試の解禁日を迎えた。合格を報告しに来てくれたとき満足しきった顔を私に見せてくれた。
偏差値40に届かなかった生徒が1年で偏差値50を超えた。これはどれほど困難なことなのか。経験者以外は理解できないと思う。偏差値50から60にするほうがたやすい。基礎学力がない生徒にその学力をつけるにはとことん遡って教えていかなければならない。想像もつかない根気のいる仕事だ。それをやってのけても世間は驚いてくれない。偏差値70の生徒がそのまま超難関校へ合格するほうがインパクトがあるのである。
私の身体はというと、うつ病が再発した。風邪のような症状が続き、何の薬も効かないやっかいなものだった。秋には仕事から離れて気分転換も兼ねて城崎に数日滞在させてもらった。1泊数千円のホテルがあったので長居できたのであった。城崎には7つの外湯があるが、その内の5つの「男湯一番札」(開場して最初の客がもらえる将棋型の札)を今でも部屋に飾ってある。
2年後、彼と食事をした。医者の息子の友達が多いという。「自分も医者になりたい。」彼の成長はこれからもつづく。