元旦に入江塾の小6生を北野教室に程近い北野天満宮に連れていった。
本人らは初詣と称しているが、お目当てはいろいろな屋台をのぞいてのショッピング。
お年玉として私が渡した金額内での、そして食中毒を起こすような食べ物を除いての買い物を許可した。
元塾生を兄・姉に持つ生徒がこの慣例を伝えるので年末から「元日は天神さんに行くのか」としつこく聞かれる。
「自分のお小遣いを使っていいか」など、まだ決定していないのに気が早い連中もいる。
正月は入試直前。
だから塾も開けるのだが、受験生の身体も心配。
腹をこわしたり、インフルエンザに罹ったりしたら大変。
インフルエンザの流行り具合や、当日の天気などを考えると前もって予告などはできない。
今年は「よかろう」とその日に決行した。
グループに分け迷子にならないように講師と行動を伴にするように指示。
本人らはそんな私の気遣いはおかまいなしの有頂天。
まあ、無事に終わってホッとした。
「さあ、気持ちを切り替えて、最後の追い込みに全力を注げ!」と檄を飛ばす。
と、3日だったか。
私のまん前で特訓学習していた女子生徒が、「先生、はずれてしまった」と言うではないか。
見ると、ペンケースのチャックが壊れ、つまみが落ちている。
それに付けていた北野天満宮と別の神社のお守りともども。
私は気にはしないが「本人や親は縁起が悪いと思いやしないか」と心配になった。
他の講師にその場をまかせ、すぐに近くの複合スーパーの文具売り場に走った。
電話で本人の好みの色を聞き、新しいケースを持って帰った。
そして、お守りも付け直した。
初詣といえば、最近このような新聞記事が目に留まった。
――初詣さい銭平均243円――
京都中央信用金庫が24日発表した「初詣アンケート調査」結果によると、今年のさい銭は平均243円で、前年より52円少なく、調査を始めた2007年以降で最も低い額となった。
懐具合によって金額は変動するものの、人々はその願いを、お金とともに神仏に捧げるものと実感する。
神社の場合、それについてのこんな表現がある。
「本殿の前に立ち、鐘を打ち鳴らして神さんを呼ぶ。そしてさい銭を投げ入れて、これで何とかしてくれと頼む。」これはもちろん冗談だが人間欲の一面を言い得て妙である。
まさに御利益宗教である。
しかしながらもちろん、現世欲の表れとしては解釈できない人間行動もある。
私は次の新聞記事に心を打たれた。
――6000人の死抱え宮司に――
16年前の1995年1月17日。
刻々と明らかになる激震のすさまじさは、この顔とともに伝わった。
NHKテレビのアナウンサーとして阪神大震災の第一報を伝えた宮田修さん(63)。
退職後「自分の幸せを求めない。人のために生きる」と千葉県の神社の宮司に転身した。
震災については「6000人の死は重い。もう一回あんなこと放送しちゃいけない」との思いだ。
「自分の幸せを求めない。人のために生きる。」このようなことを言い切ることのできる氏はすばらしい。
宗教家の鑑とも言えよう。
私は数年前、病から脱出するためある方の勧めで早朝散歩を日課としていたことがある。
その道は家から北野天満宮の境内を通るコースにした。(夏期は午前4時から、冬期は5時から開門される。)
社務所には灯りがついている。
その前を掃除しておられる若い神職の方から「おはようございます。」と声をかけられる。
その日の始まりに感謝の念がわいてくる。
そんな日々を過ごしたことを思い出す。
ところで幼児教育について書いた私の文章で、「本性的快」について述べているものがある。
それと重複する部分もあろうが、再度それについて私見を述べたい。
「人間は本性(本能)的“快”を求めて行動する。」そこで探究反射などの本性を利用して知能教育が成り立つ。
一般化すれば「受験勉強は合格という快に向かっての行動」とも考えられる。
さらに考えを進めたい。
それでは「快」が現世的快ではなく、来世的快ということはあるのだろうか。
私の尊敬する故榎本保郎牧師1)は「キリスト教は最大の御利益宗教である」と著書で表現されている。
確かに聖書に――イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人に与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。2)
――私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも賞を受けられるように走りなさい。3)
――等のこの世の生き方に対する来世での幸せを約束したと思われる箇所が散見される。本来の宗教であれば(修行なども含め)これに力点が置かれるのは必然か。
ただ人々にとってあの世に賭ける人生であっても、現世的には不快、あるいは無快なものを受け入れることはなかなか難しい。
もしできたとしてもそれは人間だからであって、動物にもあてはまるような「本性的」なものではないような気がする。
そして「知性的」に考えればかなり高度なものになってしまう。
一方、例えば有名な「パスカルの賭け」4)のような理論は、1つの哲学であって〔信仰〕に直結するものではない。
他方、現在スティーヴン・ホーキング5)は天体物理学の立場から、リチャード・ドーキンス6)は生物学の立場から無神論・唯物論を展開しているが、完全なる科学的証明に裏づけられたものではない。
チャールズ・ダーウィン7)の進化論は言うに及ばずだ。(彼らと対等に語り合えるキリスト教神学者が同じく英国におられる。その方はアリスター・E・マクグラス教授8)である。テレビで公開討論もされているというのだから日本との文化・歴史の違いを痛感する。)
私としてはこれら両方の知性的人生観は〔信心〕とでも表現したい。
そして述べてきたような現実を考えると今後もこの意味での知性的宗教は(唯物論への〔信心〕も含め)存在しつづけるに違いない。
だからこそ教育はそれに対峙するだけの力量を持たなければならない。
最後になったが、あのマザー・テレサ9)の生涯を知性的人生観〔信心〕と結びつけることは私個人としてはしたくない。
「彼女の弱者への献身的な生き様は、十字架の愛の現れすなわち〔信仰〕である」ことに疑いはない。
1)1925年生まれ。同志社大学神学部卒。1977年7月、アメリカを伝道旅行中、ロサンゼルスで客死。 著書―「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)他。氏の信仰者としての伝記的小説は「ちいろば先生物語」三浦綾子著(朝日新聞社)として1987年に刊行された。
2)新約聖書(新改訳) マタイの福音書19章21節
3)新約聖書(新改訳) コリント人への手紙 第Ⅰ 9章23,24節。 発言者は12弟子ではないが、イエスの弟子パウロと考えられる。
4)フランス人哲学者ブレーズ・パスカルが提案したもので、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もない、むしろ生きることの意味が増すという考え方である。「パンセ」233節にある。 出典:フリー百科事典「ウィキペディア」
5)1942年生まれ。元ケンブリッジ大学教授。「車椅子の物理学者」として有名。ブラックホールの蒸発や宇宙論などの理論のほか、一般の人向けの啓蒙書「ホーキング、宇宙を語る」の執筆などでよく知られている。 出典:フリー百科事典「ウィキペディア」
6)1941年生まれ。元オックスフォード大学教授。1976年に刊行された「利己的な遺伝子」は世界的な大ベストセラーとなる。日本語訳の1人は日本を代表する動物学者の故日高敏隆氏。
7)1809年~1882年。エジンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学んでいるとき自然史への興味を育んだ。 著書―「種の起源」「人間の由来と性に関連した選択」他
8)1953年生まれ。オックスフォード大学神学部教授。オックスフォード大学で生物学を学ぶ。若くしてマルクス主義に傾倒するが、在学中にマイケル・グリーンの影響でキリスト教を再発見する。1976年、分子生物学で博士号を取得後、オックスフォード大学で神学を修める。 著書―「神学のよろこび」(キリスト新聞社)などの啓蒙書の他、専門書多数。
9)本名:アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ。1910~1997年。1979年ノーベル平和賞受賞。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。カトリック修道女であったがケアする相手の状態や宗派を問わなかった。