カルネアデスの板
船が難破して乗客のAとBが海になげ出された。
そこに1人ならつかまって浮いていられるが、2人なら沈んでしまう程度の大きさをした舟板が流れてきた。
この板につかまって救助を待つよりほかに助かる術はない。
2人はこの板につかまろうとしたが、AはBを蹴り離して溺死させ、その後Aは救助された。
これは刑法上の緊急避難の説明として有名な具体例である。
そしてこの場合、Aには殺人罪としての違法性を問えない。
すなわち利己的なAの行為は「他人の命」という法益を侵害しているが、道義上は別として刑法上は許されるというのである。
これは「法という社会規範が個人に対し利他行動を要求していない」ことを示している。
しかし、このような事態に遭遇したAには同情する。
まず、この事実を知った他の人々はその後どのような反応をするだろうか。
一般の方の道徳感がその後の人間関係に影響しないだろうか。
というのは「東日本大震災の時、防災無線で町民に避難を呼び掛け続け、津波の犠牲となった町職員、遠藤未希さん(当時24才)が、埼玉県の公立学校で使われる道徳教材に載る」という記事を1月の新聞で読んだからだ。
遠藤さんの利他行動が道徳的と評価されたのだからAの利己的行為は道徳上好ましいものとは言えまい。
またA個人としては良心の呵責に責められることも考えられる。
とすれば、Aのその後の人生はつらいものであろう。
結局、Aの決断は利己的行動で命を繋いだものの、人間にとって大切な何か(社会的評価や人間としての尊厳など)を失ってしまう結果になりかねない。
これが利他行動を選ぶ消極的要因となるとはいえないか。
ところで利他的な行動の絡んだ事故がまたしても起こった。
4月21日大阪府茨木市西河原の安威川で、子供2人が溺れ、付近の男性ら数人が川に飛び込んで助けた。
救助にあたった成人男性1人は死亡した。
私達もいつそのような現実に直面するかわからない。
究極の利他的判断を迫られる事態は他人事ではないのである。