その頃有名中学への合格実績も多少出だしていた。
それをチラシで強調できないだろうか。
またネームバリューのあるカバゴン阿部進が理科実験を見せる企画はインパクトを与えないだろうか。
1992年春、新教室は地域的にも離れていたこともあり、新聞の折り込みチラシは今までの数倍の規模で入れることになった。
一面には理科実験教室として阿部進氏の顔写真、片面には学習部門として私の顔写真を載せた。
私の顔写真の掲載はまさに「清水の舞台」だった。
私は弁護士である父の後を継ぐべく大学の法学部に入学したが中退してフリーターになった。
実家や出身小学・中学・高校も近い地域で自分の顔を晒すのはかなりの抵抗感があった。
しかし、ここは一大勝負の時だ。
「学習塾の仕事に堂々と自信をもって自分を前面に押し出さなければならない」と腹をくくった。
また成功へ験をかつぎ、髭をたくわえた。
そして教え子のお父さんが芸術写真家だったのだが、厚かましく私の顔写真を撮ってもらった。
それは本来の自分以上に貫禄のある人物となっていた。
朝刊にチラシが入った日、塾では電話が鳴り続けた。
1台の電話しかなく説明会の予約やら問い合わせやら用件を済ませるとすぐに次の電話がかかってきたのだ。
まさにてんやわんや。
件数としては学習部門と理科実験部門とおよそ半々であった。
しかし、私単独で広告しても反応は半分もいかなかっただろう。
カバゴン効果絶大であった。