このことわざは、
地方で一生懸命に本から知識を得るよりも、京のみやこならのんびりしていても知的刺激を得る機会は多く、むしろ見聞が広がることを言うそうだ。
・・・・・あるいは「田舎の三年、京の昼寝」というのもあって、田舎で三年学ぶのと、都で昼寝をするのとでは、ほとんど上達の度合いが変わらないとも言うらしい。
(5月10日付京都新聞 天龍寺国際禅堂師家・花園大学教授 安永祖堂)
安永氏は結局、
(京都は)当代一流の人材が集まり、たがいに切磋琢磨する空間であり続けてほしいのである。
という御意見なのだ。
私も京都在住の身としてはそう願いたいとは思う。
しかし、このことわざの「京」を「東京」に変えてしまうとどうなるのだろうか。
学力低下の問題に詳しい京都大学経済研究所の西村和雄所長が指摘していることだが、東大と京都大学の学力の差がついたとのことである。
・・・・・・教育ライター石渡嶺司氏の話でも、「京都大学がローカル大学」になってきていて、東大との差が開いていく一方だという。
・・・・・記事には都道府県別に「息子を入れたい大学」「娘を入れたい大学」の上位校が掲載されている・・・・京大はもともと、関西や北陸以西の西日本では東大以上に強かったはずだ。
しかし、この調査では岡山、広島、福岡、宮崎などで東大に負けている。
(「新学歴社会と日本」 和田秀樹)
また、気になるのは先日東大出身の友人と出会ったときに聞いた話である。
彼は今関西の経済界の団体に関わっているらしく「関西の財界人の質が以前に比べ落ちてきているような気がする」と言うのである。
さらに、以前沖縄県の大手学習塾の塾長が講演会で「塾生には地元の大学よりも東京の大学に行くように勧めている。
実際、東京の大学に行った学生の成長は目を見張るものがある。
しっかりした社会性と学力をつけて教師として地元に戻ってきてほしい。」とおっしゃっているのを聞いて、「これは沖縄のためになるのだろうか」と疑問を持ったことがある。
いったん東京に出て古里にUターンしてくる若者はどれほどいるだろうか。
地方分権、地方活性化が叫ばれる昨今、これは難しい問題ではある。
ところで天龍寺の元管長、故平田精耕氏は父の知り合いなのだが、その縁で氏の文章を私どもの機関紙「育星」に載せさせていただいたことがある。
京大哲学科では西田幾多郎、久松真一、平田精耕という大きな人脈の流れがあったはずだ。
そして安永氏もきっと平田老師のもとで修行されたのではなかろうか。
私は切磋琢磨する横の刺激とともに、この縦の系譜を忘れてはならないと思う。
例えば地方であっても吉田松陰の思想は今でも日本で息づいているのだから。