夏の京都の暑さはたまらない。
特に胃腸の弱い私は必ず体重が減る。
だから夏期講習は気力で乗り切ることになる。
今年の夏も暑かった。
普段ビールを呑まない私が冷たいビールを口にしたほどだ。
しかし、16日の大文字の送り火を境にして秋の気配が感じられるようになってきた。
実家が京都なので大文字の送り火は毎年のこと、家の外に出れば右大文字、少し歩けば左大文字が見える。
家の外にわざわざ出ずにすごす年も多い。
しかし、6年前に見た大文字は思い出深い。
高校の同級生や知人と連れ立って、あるいは独りででも呑みに通った20年来のHという店が木屋町にあった。
そこの女主人Tさんは決して美人とはいえないが客にはなかなか人気があった。
人一倍苦労しているのに不思議なほど明るい人柄が私も含めその元気さをもらいたい人達を引き付けたのだろう。
私は中学生の頃から胃腸が弱く、よく風邪を引いていた。(ただ、冷たくないアルコールは呑めるようになった。)
それに比べ、彼女は風邪などとは全く縁がなかった。
「お坊ちゃんはしょうがないわね」などとよく嫌味を言われた。
こちらもくやしいので「車でいうたらボクは警告ランプがしっかり作動しとるんや。そのランプが壊れて走っていても何も健康やあらへん。あんたも他人のこと言うてんと自分のこと気つけや」
そんな私の皮肉が現実になってしまったのだろうか。
検診で大腸ガンが発見されたのだ。
それでもガンバリ屋の彼女は手術で復帰した。
彼女も再発は覚悟していただろうが、1年後それが起こってしまった。
今度の手術は神経を切断しなければならず彼女は悩んだ。
手術をすれば下半身不随になるからだ。
その頃すでに京都では再生医療の研究が進んでいたのだろう、医師から神経の再生も可能性があるとの話があった。
私にも私の同級生の医師K君にもそのことについて相談があった。
結局、彼女は手術をしない方を選択した。
私とK君が彼女と最後に会ったのは8月16日であった。
ホスピスは右大文字の山裾近くにあった。
多くの車椅子の患者と看護師が送り火を見るために戸外に出ていた。
午後8時点火が始まった。
炎が間近に見える今までにない巨大な大文字が浮かび上がった。
「来年私はもう見ることができないわね」と彼女が言った。
K君は「そんなことはないよ」と笑顔で答えた。
私は何も言うことができなかった。
その年の12月の寒い日に彼女は逝った。
今年、私は彼女と同じ年になった。