昨年度のことになりますが、5年生に作文の授業で、「あなたの町のおすすめの場所」を観光客に紹介する文章を書く、という課題を出しました。
「僕(私)の家の近くには何もない。」
と口々に言う生徒たち。
噓でしょ!君たちはかつて世界一の観光都市に選ばれたこともある(残念ながら今は違うようですが)京都に住んでいるんじゃないの?
生まれた時からずっとこの環境にどっぷり浸かっていると、どれだけ素晴らしいところに住んでいるのかわからないのでしょうか。
8年前に香川県の田舎から京都に移り住んだ私は、京都に魅せられて、今も休みごとにあちらへこちらへと、京都中をうろうろしています。もちろん、香川にも素敵な場所は沢山ありましたが。
そこで今回は、育星舎北野学舎の周り半径300m以内に「観光客におすすめの場所」はないか、私なりに探してみました。
先ずは「地蔵院(じぞういん)」通称「椿寺(つばきでら)」です。
地蔵院は726年行基の開創とされます。その後移転、焼失などありましたが、足利義満により金閣寺造営の余財で仮堂が建てられ地蔵菩薩を奉安されました。ついで豊臣秀吉により一条紙屋川の現在の場所に移り、現在に至っています。
例年3月下旬に見ごろを迎える「五色八重散椿」は、1本の木に濃淡様々な色合いの花が見られる名木。現在あるのは2代目ですが、京都市の指定天然記念物にも指定されています。
この椿、もともとは豊臣秀吉が北野大茶会を催した際、お世話になったお礼にと地蔵院に献木されたもの。普通椿の花は散るときに花首から丸ごと落下することから、戦国武将たちは「打ち首を連想する」と椿を敬遠しましたが、この椿は花弁が1枚ずつ散っていくということで、かの秀吉も「この五色八重散椿は散り際も良い」とたいそう気に入っていたと言われています。
また地蔵院には、赤穂浪士、吉良邸討ち入りの際の陰の功労者「天野屋利兵衛」の墓所もあります。天野屋利兵衛は、『仮名手本忠臣蔵』では第10段に天河屋義平として登場し「天河屋義平は男でござる」という名台詞で知られています。
次にご紹介するのは北野学舎からぎりぎり300m東北東に位置する「大将軍八神社」です。
「大将軍八神社」は平安京造営の際、桓武天皇により都の北西に王城鎮護のため「大将軍堂」として創建されました。陰陽道で祀られる大将軍神を祭神としていましたが、明治時代の神仏分離令によって素戔嗚尊(すさのおのみこと)と御子神八柱を祀るとされ、社名も「大将軍八神社」となりました。
こちらのおすすめは、何といっても方徳院(宝物殿)にある80体の神像群です。神像の作例自体あまり多く見られないと思いますが、これだけの数がまとまって一ヶ所で見られるのは珍しく、国の重要文化財にも指定されています。陰陽道の宇宙観を表わす「立体星曼荼羅」だということで、神像群の中央に立つとなんだかパワーが漲ってくるような気がするから不思議です。一般公開は春と秋の年に2回となっていますが、お願いするといつでも見られるようです。
最後はちょっとゆる~い感じになりますが、大将軍商店街「一条妖怪ストリート」です。
大将軍商店街では、手作り感いっぱいのゆる~い感じの妖怪があちらこちらに登場します。また、「妖怪コロッケ」や「妖怪ラーメン」といった妖怪にちなんだB級グルメ(?)も売られていて、のんびりお散歩するにはなかなか楽しいところです。
なぜ妖怪?かと言うと‥‥
一条通には古くから、『付喪神絵巻』に記された「百鬼夜行」の話が伝わります。百鬼夜行とは、平安時代の京都で幾度となく起こったと言われる怪現象。今よりも闇の濃かった平安の夜、様々な化け物が徒党を組んで京の都を練り歩いたと伝わります。
その中でも特に有名なのが、一条通の大行列。化け物たちは船岡山から一条通を東へ進んだと言われ、その様子が『付喪神絵巻』に記されているのです。
古来より日本では、「道具は百年経つと化けて人間に悪さをする」という俗信があり、その百年に一年足りないのが「九十九(つくも)」つまり「付喪」です。「物を大切にしなさい」という教えが今も受け継がれているのでしょうか。この通りに、なんだか憎めない愛らしい妖怪たちが住んでいるのです。
今回ご紹介した「地蔵院」「大将軍八神社」はどちらもこの一条通沿いにありますので、時間をかけてのんびり散策してはいかがでしょうか。
塾の周り300mの範囲だけでも、興味深い場所が3ヶ所も見つかりました。生徒の皆さんのご近所にも、きっと観光客におすすめできる素敵なところがあるはずです。ちょっと周りに目を向けるのもいいかもしれませんね。
さて、次の休みには何処へ出かけましょうか。考えただけでもワクワクしてきます。
筆者:富田