教育への疑問(2)
………私達には「殺人禁止」の本能がありません。
その代わりに自由があり、良心がある。……
私達には殺す自由もある。
殺される自由もある。
そしてその自由を自らの意志によって超える究極の心の自由がある。
この自由は共感の自在性――どんなものに対しても、想像によって“そのものの気持ち”をシミュレートできるという能力に支えられている。
「命の尊さ」などとよくいわれますが、これは何の意味もない言葉です。
内容のない言葉に囚われてはなりません。
それは、むしろ良心の声を聞こえにくくするノイズとなってしまうことが多いのです。
どうか君達に、殺された子のことを想像して欲しい。
その痛みを、その苦しみを、その悲しみを、その絶望を……。
そして殺した子のことも。
その錯誤を、その過ちを、その傲慢を、その欲望を……。
自由に想像してごらん。
きっと、君達なら答えがみつかる。
私は君達の、どんな自由にも耐え得る意志を、共感の力を、良心の声を信じています。
宮崎哲弥 (某週刊誌より)
前回「命の大切さ」を伝える教育に対する疑問について述べたが、上記宮崎哲弥氏の主張は「命の尊さ」の言葉の効力を否定している。
私はこの意見を読んで思わずなるほどと納得した。
同じ種族を恨みや興味で殺してしまうのは人間ぐらいだろう。
動物なら繁殖あるいは飢餓のときぐらいしか相手を殺してしまうほど攻めはしない。
その意味で「人間にとって最も恐ろしい敵は人間である」とはよく言うところである。
宮崎氏は人間には「殺人禁止」の本能がない。
その代わり自由があり、良心があるというのである。
ただ、決定・行動する自由があるとしても踏み止まる良心はどこから来るのだろうか。
また、それを道徳・倫理さらには宗教と言い換えているのが人間ではないだろうか。
そんなことを考えると、子供達に「命の尊さ」を伝えることで、自殺行為も含めて「人を殺す」ことを否定する道徳教育も今のところ一般的に必要だと思う。
しかし、「人を殺してはいけない」ことを教えるために「命」という言葉を持ち出すと、死生観などの哲学や宗教とも関わる問題となり、それに触れない、あるいは触れられない教育界にあっては生徒への説得力はもうひとつだ。
また仕事柄、小学生の会話を聞いていると「殺す」「死ね」などのことばが本人には実感なく出てくる。
私はそんな言葉は使わないように注意するが、その理由を明確にはしていない。
なぜなのかを説明するのは難しいし、相手は理解できないと思いがちである。
この生徒達に「命の尊さ」を説いて効果があるのかとつい思ってしまうのである。
そんな生徒達は宮崎氏の論説をどう受けとめるのであろうか。