私の人生(12)
そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。
民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。
そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。
旧約聖書(新改訳)ヨシュア記6章20節
昭和50年頃、当時の塾業界を知る塾長に言わせると、学習塾は看板を立てただけで生徒を集めることができたという。
新聞への折込チラシの効果もまだ大きかった。
ところが私が塾を始めた頃はそんな追い風はまったく感じられず生徒集めに四苦八苦した。
何とか個人塾として生徒数は確保したものの、生徒募集の媒体としてのチラシ広告の反応率は年々下がる一方であった。
そんな状況の中、一挙に50%の生徒数増を見込んで拡張移転をするのである。
今から思えば捕らぬ狸の皮算用としか思えぬ無謀な行為。
しかし、不思議に不安を感じなかった。
チラシは素人ながら出来映えに満足がいくものとなった。
初めての本格的作品が堂々新聞に折り込まれる。
その数2万枚。
自分の氏名、顔写真、略歴などが載ったものである。
反響はあってほしいが、何やら気恥ずかしい。
そんな複雑な気持ちでその日を迎えた。
朝刊に折り込まれた当日の午後、いつものように塾を開けた。
と、その途端電話が鳴り出した。
はやくも折込チラシの反応があったのだ。
それから立て続けに電話の対応に追われる有様。
生徒が来てもゆっくり教えている暇がない程忙しくまさにうれしい悲鳴。
電話の内容は新たな理科実験教室・科学の学校の説明会の申込みだけでなく、当初立ち上げた学習部門の問い合わせも半分近くあった。
受験に関心ある保護者にはまだ移転前の小さな塾を見て失望されるのではないだろうかと心配したが、多くの方が次々に来られ狭い教室で熱心に私の話を聞いて下さった。
他方、科学の学校の説明会は移転先で行なった。
ちょうど幸いなことに教室の仕切りが未完成だったので広い場所が確保でき、100名近くの参加者を収容できた。
阿部進先生の弁舌も絶好調、子供達も大喜び、大成功であった。
結果は目標を上回る入塾者を得ることができた。
願っていたとはいえ、驚くべきことだ。
今でもこの事実は奇跡的なこととしか思えず、同じ様なことはこれから後にも先にも経験はできないと思う。
しかし、この一件は「世の中は常識だけにとらわれて行動してはいけない」という教訓を私に強く植えつけた。