私の人生(13)
人を動かすには、相手のほしがっているものを与えるのが、唯一の方法である。人は何をほしがっているか?
二十世紀の偉大な心理学者ジグムント・フロイトによると、人間のあらゆる行動は、ふたつの動機から発する――すなわち、性の衝動と、偉くなりたいという願望とがこれである。
アメリカの第一流の哲学者であり教育家でもあるジョン・デューイ教授も、同様のことを、少しばかりことばをかえていいあらわしている。・・・・・
人間は何をほしがるか?――たとえほしいものはあまりないような人にも、あくまでも手に入れないと承知できないほどほしいものが、いくつかはあるはずだ。
普通の人間なら、まず、つぎにあげるようなものをほしがるだろう。
一、健康と長寿 二、食物 三、睡眠 四、金銭および金銭によって買えるもの 五、来世の生命 六、性欲の満足 七、子孫の繁栄 八、自己の重要感
このような欲求は、たいていは満たすことができるものだが、ひとつだけ例外がある。
この欲求は、食物や睡眠の欲求同様になかなか根強く、しかも、めったに満たされることがないものなのだ。
つまり、八番目の“自己の重要感”がそれで、フロイトのいう“偉くなりたいという願望”であり、デューイの“重要人物たらんとする欲求”である。
リンカーンの書簡に「人間はだれしもお世辞を好む」と書いたのがある。
すぐれた心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間の持つ性情のうちでもっとも強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである」という。
ここでジェームズが、希望とか要望とか待望とかいう、なまぬるいことばを使わず、あえて「渇望する」といっていることに注意されたい。
「人を動かす」 D・カーネギー(創元社) p.33,34
去年の暮も元保護者のある方からいつものように歳暮が届いた。
その息子さんは中学受験のとき拡張移転した教室に通塾してくれた。
今は検事になっているから、塾生であった頃はもう20年程前の話になる。
私としては大きな借入もしていたので懸命に指導したのだと思う。
純粋に教育的な気持ちも少しはあったがまだまだ打算的な要素が大きかった。
しかし、彼は私を信頼しきっていた。
そして中学に合格した。
それからである。
毎年、律儀にも中元、歳暮を送って下さるのである。
世間でよくあるこのような関係は億劫なこともあり、私の生活では皆無に等しい。
何度も言うが、私は学習塾というものが社会的には積極的に認められていないと思っていたので、常に自己矛盾の中にいた。
仕事が終わると毎日のように呑み歩いていた(顔がさすので塾近辺は避けていた。)
今から思えば本当にいいかげんな生活をしていた。
そんな私に、そのお母様は「先生の献身的な指導のお陰で息子は合格することができました。感謝の気持ちで一杯です。主人は転勤族ですので、塾で接する時間がより多かったのか息子は先生を父のように慕っております。また先生を尊敬していますので、同じように大学は京都大学法学部を目指したいと言っております。」
年に2回、お礼とともにご心配無用との電話をやっとの思いで掛けるとこのような丁重な言葉をいただくのである。
当初はそれが本当につらかった。
「誤解されています。本当の私はそのような人間ではありません。」と言いたかったのだ。
もう私のことは放っておいてもらいたいと願った。
しかし、何度もくり返し聞くうちに自分の心の中に変化が起こってきているのに気づき始めた。
ひとつは、単なる学習塾の講師であっても接した生徒には人間として大きな影響を与える。
だから私自身の人生のあり方を生徒のために考えなければならないと思い出した。
そして、私の強い劣等的な意識はそのお母様の度重なるお褒めの言葉によって少しずつ薄らいでいった。
私の仕事もやり様によっては社会的価値が出てくるのではないかと淡い期待が持てるようになった。