病気によって起こる体の不自由さは、特に顔と排泄に関するものは、どんな人間にとってもその尊厳に関わるものだから比重が高い。
…(中略)…
しかも私の場合、山よりも高いプライドが邪魔をする。
ある日うちにたった一人でいた時のこと。
ハエが飛んできて頬っぺたに止まった。
…(中略)…
その顔にハエが歩く。
私の顔はテーブルの上の残飯ではない。
道端にころがる犬、猫のうんこではない。
…(中略)…
こういう時、深くプライドが傷つけられ侮辱を感じる。
そんな私の気持ちを知っているかのような聖書の箇所があって私は驚いた。
神である主は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、うしろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、
ひげを抜く者には私の頬をまかせ、
侮辱されても、つばきをかけられても
私の顔を隠さなかった。
しかし、神である主は私を助ける。 (イザヤ書 50、5-7a)
神様は私の気持ちを御存知だった。
しかも背中に襲い来るもてあます程の激痛も合わせてご存知だったのだ。
「私はあなたを助ける」と主は言われた。
現金な私は、顔を無断でのし歩くこの小さなハエさえ、いとおしくなるのだった。
『花物語』 ‐小さなハエ‐
この文章は31歳で難病(多発性硬化症)に見舞われ、8年前に46歳で亡くなった阿南慈子さんが口述筆記でつづられたエッセーである。
私は去年ある小さな集まりで御主人である私立洛星中学・高等学校の校長、阿南孝也先生が奥様のことを語られることを知ってその場に参加させていただいた。
2人の小さなお子様をかかえ大変な御苦労をされていたとはとても思えないすがすがしい爽やかなそしてユーモアも交えた話しぶりに私は感心した。
もちろん奥様の生き方にも感動したのだが。
御夫妻ともカトリック信者であるという。
プロテスタントではあるが私もクリスチャンの端くれなので阿南先生の信仰についてのお考えに興味を持っていたのである。
それで質問の時間私は「先生は神の存在を疑ったことはありませんか?」と唐突なことを聞いてしまった。
先生はキョトンとされ「生まれて物心ついたときから神がおられるのはあたりまえだと思ってきました。」と言われた。
先生も私の質問に驚かれただろうが、私もこの単純かつ強烈なお答えには返すことばが出ずに困ってしまった。
その後私は考えた。
「神への絶対なる信頼を置いたお2人の信仰生活そのものが神の存在証明と言えるのではないだろうか」と。
私は裸で母の胎から出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。 (ヨブ記 1、21)