阿部先生は多方面で活躍しておられた頃、富士山麓に「野生学園」という「自然の中の実験教室」を作られた。
ここで、春、夏、冬などの学校の休みの期間に野外学習として多くの生徒達の合宿を実施された。
先生に案内されてそこに見学に行ったことがある。
建物はログハウス調で、常駐するスタッフもおられ、うらやましい限りの施設であった。
ところで「科学の学校」創設当初手伝っていただいていた長男の昌浩先生も2年ほどで東京に帰られた。
時が経つにつれ京都の「科学の学校」は独自のマニュアルを蓄積し東京の「麻布科学実験教室」と肩を並べる程に成長した。
そして阿部先生の快諾を得てフランチャイズ契約を解消させていただいた。
そんなこともあり、阿部先生とは京都に来ていただいたり、私が出向いたりというお付き合いも十数年程前からあまりなくなっていた。
しかし、昌浩先生とは連絡をとり合って先生の御様子はうかがっていた。
あんな元気だった先生がここ数年いろいろな病気を患うようになっていった。
帯状疱疹、人工関節手術、心不全、角膜ヘルペスによる左目の失明、股関節骨折など次から次へと病魔が襲い、車椅子生活を余儀なくされるようになっていた。
そして最期は胃がんが原因で逝かれたという。
そんな中でも、ある記事によると「朝、目覚めたら『今日も生きていた!』って、もうそれだけでうれしくてうれしくて。
命あることに感謝しながら暮してますよ」と話されたらしい。
血液がO型だからといって到底言えないすばらしい境地である。
風邪で寝込んだだけでも落ち込むような私にはそんな気持ちになれないだろう。
そしてつい最近まで自宅で小学4年の男子を指導しておられたという。
全盛期の先生は、学校の講堂で数百人の小学生を前に授業をされたことがある。
あれはただのパフォーマンスで行っていたわけではなかったのだ。
「阿部先生は本当の教育者だったんだ」と今つくづく思う。
教育に携わる者として先生と出会えたことを感謝しなければならない。
御冥福をお祈り申し上げます。