小学生の時期にほぼ必ずさせられる「音読」。
一度も音読の練習をしたことがない、させられたことがない、という人はあまりいないのではないでしょうか。
「音読なんか、黙読するのに比べて読むのに時間がかかるじゃん」
「意味がわかればいいんでしょ?なんで声に出さなきゃいけないの?」
「めんどくさい」
「声に出して読むのは恥ずかしい」
と、私も子どものころは思っていました。
音読は国語の基本として大切なことだ、というのはわかります。
でも、どうして音読はそんなに大切なのでしょうか。
そのことについて、私なりに考えていることを書いてみます。
国語で記述問題の練習をするとき、私が子どもたちによく言うのが「その解答、声に出して読んでみて」。
子どもたちが書いてくる文は実に十人十色です。
そして中には「言いたいことはなんとなく分かるけど、日本語が何かおかしい……」「これは一体何を言いたいのだろう……」と首をひねってしまう解答もたくさんあります(間違い方も十人十色なので、それはそれで面白いのですが)。
主語がねじれて誰の話かわからない文。
「てにをは」がおかしい文。
それを、「見直して」「読み直して」と言っても、おかしな箇所にはなかなか気が付いてもらえなかったりします。
「うん、大丈夫」と自信満々に言われることもしばしば……
でもこれが、「声に出して読んでみて」と言うと……
読んでいる途中で「あっ!」と直し始める生徒。
自分が一体何を書いたのかわからなくなって「あれ?」「ん?」と言い始める生徒。
自分の書いた文がなんだか変だということに、声に出して読み、自分で聞いてみるとよく気が付くのです。
声に出して読むことで、自分の解答をなんとなーく眺めている状況から離れられる、というのもその気づきに一役買っているのかもしれません。
そしてそれ以上に、「言葉の基本は口でしゃべること・耳で聞くことだ」というのが、この気づきのとても大きな要因なのだと思います。
言葉の基本が聞くことやしゃべること、というのはどういうことでしょうか。
そのヒントは、赤ちゃんや小さな子どもが、言葉を身につけていく過程にあります。
誰しもが知っている通り、赤ちゃんが生まれて最初に知る言葉は、耳から入ってきます。
やがて、少し年齢が大きくなれば自分で「おしゃべり」するようになります。
そして、もっと大きくなれば文字が読めるようになり、手先が器用になってくると上手に文字を書けるようになります。
ここで20世紀のソ連に生きた、ヴィゴツキーという心理学者の主張を、少しだけ借りてきてみましょう。
彼の理論によると、まず子どもの言葉は「外言」——つまり、他人と話してコミュニケーションをとるためのものから始まります。
それはやがて、考える言葉である「内言」——口に出さずに頭の中で自分との対話をするためのものとして使えるようになっていくのです。
「外言」から「内言」が生まれる途中の言葉を、「自己中心性言語」といいます。
小さな子どもが、誰にともなくぶつぶつと独り言をつぶやいているところを、見たことがある人は多いでしょう。
テレビ番組の「はじめてのおつかい」でも、子どもがひとりで「ここどこ~?」とか、「お金ちゃんとある?あるよ~」とか、しゃべりながら歩いている姿は印象的です。
これが「自己中心性言語」。頭の中で考えていることが口から漏れて出る言葉です。
この「自己中心性言語」が、口を閉じても頭の中だけで使えるようになっていくことで、「内言」を身につけていくのです。
こうして、「話す言葉」から「考える言葉」が生まれます。
・声に出して読むのは、「書く言葉」を「話す言葉」に変換する作業の練習
では、「書く言葉」——つまり、「文字」や「文章」と「考える言葉」にはどんな関係があるのでしょう。
下の文を黙読して、自分がどう文字を理解したのかを、ものすごく丁寧に意識してみてください。
「ごがつ、あのおおものすたーが、げきじょうにやってきます。」
「ふるいけや かわずとびこむ みずのおと」
「わたしはきのうのばんゆうこさんとふたりでやきにくをたべました」
「となりのきゃくはよくかきくうきゃくだ」
文の意味を理解するとき、まず頭の中で「声に出して」読んでいませんでしたか?
句読点やスペース、単語の区切りやことばのまとまりを、さりげなく強調したり一息置いたりして再生しませんでしたか?
このように、「話す言葉」と「考える言葉」は切っても切り離せない関係にあります。
「書く言葉」は一度「話す言葉」に変換しなければ、「考える言葉」にならないのです。
「書く言葉」を、まずすらすらと口に出して読む。
それを、今度は頭の中だけで音として再生できるようになる。
そこから、はじめて文章に書かれた場面や景色、人物同士の会話を想像したり、筆者の言いたいことを理解することができる。
これは、小さな子どもが「外言」から「自己中心性言語」を経て「内言」を身につけていく過程とたいへんよく似ています。
音読は、「書く言葉」から「話す言葉」、「話す言葉」から「考える言葉」へのスムーズな変換の練習だといえます。
声に出してスムーズに読むことができないところがあると、「自分はココでつまずいている!」とはっきり意識できます。
滑舌の良しあしはともあれ、書いてあることを一言一句、きちんと口に出して読めるかどうかが、文章の理解度をそのまま表しているといっても過言ではないでしょう。
音読は、何年生になっても、なんなら大人になっても戻ってきたい言葉のキホンです。
「書く言葉」に行き詰まったとき、「話す言葉」に立ち返ってみることで、言葉の感覚をより鮮明に呼び起こすことができるのです。
筆者:長瀬