私の家族は、私が小4の時に大阪から京都の実家へと引越してきた。私の頭の中には中学入試などということは全く存在していなかった。小3のときに小学校で九九を習ったのだが、なかなか覚えられず、昼休みによくできる生徒から補習を受けていた程。業者テストではいつも50~60点というパッとしない成績で過ごしていた。そんな私に担任のT先生は「入江君、大阪は学力のレベルが高いのよ。京都に行けばきっとクラスで一番になれるわよ。」とお別れのときに話してくれた。私はそれを信じた。
京都に来て勉強に対して大いにやる気が出た。辞書などもこまめに引いて家庭学習に時間をかけた。すると、クラスで一番できる生徒になったのである。「やはり京都はレベルが低い」と内心思った。しかしそうではなかった。京都も大阪と同じ業者のテストをしていたのだが、それらの点数は90点~100点になっていたのである。私は自分の学力が上がったことにすぐには気がつかなかった。小5では各科目5点満点の通知簿でオール5をとった。私は「自分はできる」と思いこんでしまった。もう有頂天になっていた。
母も「この子はできる」と思ったのだろう。担任の先生と相談して、中学受験をする方向で話が進んだようだ。本家の子2人が洛星中学に進学していたので、洛星中学ということになった。小5の後半である。
K先生に習うことになった。先にY君が習っていたところに合流させてもらった。あるお寺の一隅の部屋で、2人はK先生の指導を受けた。次から次へと問題集をこなしていった。模擬テストも初めてであった。その結果は惨憺たるものだった。しかし、Y君は成績優秀者として名前が出ていた。私は初めて挫折を味わった。私の母も心配してK先生に相談した。私の後頭部の形について、K先生は「後でこはやればやる程成績が伸びる」と答えたらしい。
私は精神的に苦しかった。今でいうストレスなのだろう。体調も良くない状態が続いた。その中でもK先生に励まされ、何とか成績優秀者に名前が出るようになった。もう秋も深まっていた。
母は私に洛星中・高の生徒を見せるため、演奏会やクリスマス会に連れていってくれた。私は自然に洛星に対して憧れを抱いた。それは小さな私にはさらなるプレッシャーとなった。
K先生は「洛星中学にY君も入江君も合格する」と断言してくれた。洛星中学の入試には普段は近寄りがたい父親が来てくれた。親の面接もあったからだが、私に微笑みかけてきたときには驚いた。
合格した。とても喜んだ。しかし、それはさらに優秀な集団の中に放り込まれたことを意味していた。